大阪地方裁判所 昭和30年(ワ)3488号 判決 1958年8月25日
原告 十河松市
被告 朝倉須磨子
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金五五〇、〇〇〇円及びこれに対する昭和三〇年六月一九日から支払済まで年六分の割合の金員を支払え。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決と仮執行の宣言を求め、その請求原因として、
「(一) 原告は、被告の振出した左記持参人払式小切手(本件小切手)一通の所持人である。
金額 五五〇、〇〇〇円
振出日 昭和三〇年六月一六日
振出地 大阪市
振出人 朝倉須磨子
支払人 大阪市東区淡路町二丁目九番地
株式会社大阪不動銀行淡路町支店
(二) 原告は本件小切手を昭和三〇年六月一八日支払人に呈示して支払を求めたが拒絶され、支払人より小切手に呈示の日を表示し且つ日附を附した支払拒絶宣言の記載を受けた。(ただし支払人は呈示の日及び日附を昭和三〇年四月一八日と記載したがこれは昭和三〇年六月一八日の誤記である。)
(三) 仮りに被告自身が本件小切手を作成したものでないとすれば、被告の印章を使用し被告振出名義の小切手を作成振出す権限を被告より与えられていた訴外森秀一が本件小切手を作成振出したのであるから、被告は当然本件小切手振出人として責任がある。すなわち、被告は肩書住所地において医師として開業しているものであるが、被告は大阪市東区北浜二丁目七二番地において喫茶店「ロア」を経営するに当り、当時同棲生活をしていた森秀一に営業許可申請をする代理権限を与え、更に被告名義の小切手を作成振出す権限を含む営業に関する一切の権限を与えていたのである。
(四) 仮りに森秀一が権限なくして本件小切手を作成振出したものとしても、森秀一の本件小切手作成行為は森秀一が被告より与えられていた喫茶店「ロア」の営業上の支払のための被告名義の小切手を作成振出す権限を超越した行為であるが、原告は「本件小切手は森秀一が代行して振出したものにせよ又森秀一が被告から交付を受けたにもせよ結局被告自身が最終支払責任を持つ真正な小切手である。」と固く信じて、森秀一が代表取締役をしていた日勧証券金融株式会社(日勧証券会社)から、本件小切手を取得したものであつて、原告はそのように信ずべき左記正当の理由を有したものであるから、被告は表見代理による本件小切手金支払の責任がある。
(1) 被告は多年森秀一と同棲関係にある二号的存在であり、このことは日勧証券会社に出入する原告等には周知の事実であつた。
(2) 原告は、森秀一より「喫茶店ロアは二号にやらしているが自分が事実上一切面倒を見ている」との説明を聞き、又日勧証券会社の近くにある「ロア」の店を利用した際女店員より営業主の名は朝倉であると聞いたことがある。
(3) 原告は、日勧証券会社に対する株式売却代金債権の支払を受けるため、本件小切手を受領したのであるが、その際、日勧証券会社の係店員から「本件小切手振出人は喫茶店「ロア」の営業名義人であり市岡で盛大に女医をやつているが、実は社長の二号である。「ロア」の営業は社長が全部代つてやつているし「ロア」の支配人は社長の娘婿がやつている。だから本件小切手は絶対心配はいらない。」という言明があり、原告は振出人が女医であるということに強い信頼感を持ち早速、電話簿に女医として被告の住所氏名が登載されていることを確認した。
(4) 森秀一は非常に触りのよい自家用車を乗り廻していたので、原告は森秀一を信頼していた。
(五) よつて原告は被告に対し本件小切手金金五五〇、〇〇〇円及びこれに対する昭和三〇年六日一九日から支払済まで年六分の割合の法定利息の支払を求める。」
と述べ
証拠として、甲第一第二第三号証、第四第五号証の各第一、二を提出し、証人鍋川繁、同森秀一、同園敏成、同徳矢馨の各証言、原被告本人の各供述、鑑定人米田米吉の鑑定の結果を援用し、乙第一号証の成立並に原本の存在、第二ないし第六号証第九号証の各成立を認め、乙第八号証は公証人作成部分の成立を認めその余の部分の成立は不知、第七号証の成立は不知と述べた。
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、
「(一) 原告主張の事実中、原告が原告主張の記載のある本件小切手を所持していること。本件小切手振出日当時被告が森秀一と同棲生活をしていたこと。本件小切手振出日当時より被告が肩書住所地において医師として開業していること、本件小切手振出日当時ロアの営業名義人が被告になつていたことは認めるがその余の事実は争う。
(二) 本件小切手は、森秀一が、被告の印章を偽造の上、被告名義を冒用して作成した偽造小切手である。
(三) 被告は、森秀一に対し、多額の債権を有していたので、その担保として、「ロア」の営業名義を被告名義にしたにすぎない。営業の主体は森秀一であり店舗の賃借人名義は従来通り森秀一名義であつた。被告は、「ロア」の経営上の損益に関係なく、担保権者として森秀一より毎日三、〇〇〇円宛取得していたにすぎない。」
と述べ、
証拠として、乙第一第二号証、第三号証の一、二、第四ないし第九号証を提出し、証人森秀一の証言、被告本人の供述を援用し、甲第一号証中被告作成名義部分の成立並びに同号中被告の署名及び被告名下の印影の成立を否認し、その余の部分の成立を認め、その余の甲号各証の成立を認めた。
理由
原告主張の事実中、原告が原告主張の記載のある本件小切手(甲第一号証)を所持していることは被告の認めるところである。
成立に争ない甲第二号証甲第四第五号証の各一、二、乙第二号証乙第三号証の一、二、乙第四第五第六第九号証、証人森秀一の証言により森秀一が作成したものと認められる甲第一号証、鑑定人米田米吉の鑑定の結果、証人鍋川繁、同園敏成の各証言、証人森秀一の証言の一部、被告本人の供述によれば、つぎの事実を認めることができる。
森秀一は昭和三〇年三月頃大阪市東区北浜二丁目に店舗を借受け喫茶店「ロア」を開業するに当り、従来、被告より借り受けていた六〇〇万円の借金に加えて、新たに被告より店舗改造費に二百数十万円を借り受けたため、その担保の意味で喫茶店の営業名義人を被告とする合意が成立し被告は被告名義の営業許可申請をする代理権限を森秀一に与えたこと。森秀一は被告の氏を刻んだ印章を買い求めた上これを使用して被告作成名義の営業許可申請書を作成しその印章を自己の手許に留め置いたこと、喫茶店の経営は森秀一がその娘壻園敏成を支配人に任じてしていたこと。森秀一は昭和三〇年五月一七日から大阪不動銀行淡路支店と被告に無断で前記営業許可申請書に使用した印章を使用して被告名義で当座預金銀行取引を始め小切手帳の交付を受けたこと。一方森秀一は昭和二九年五月頃証券担保の金融業を目的として日勧証券会社を設立してその経営をしていたこと。森秀一は、被告に無断で、喫茶店の営業のためと日勧証券会社の営業のために被告名義の小切手を作成振出していたこと。本件小切手(甲第一号証)は、森秀一が、被告に無断で園敏成に命じて記載せしめた上、前記営業許可申請書に使用した印章を被告名下に押捺して作成したものであること。原告は日勧証券会社に対する株式売却代金の支払を受けるため、同会社代表取締役森秀一より本件小切手を被告の作成した真正なものと信じて受取つたこと。
以上の事実を認めることができる。証人森秀一の証言中右認定に反する部分は信用しない。
以上の認定によれば本件小切手は、森秀一が被告に無断で作成したものであるから被告は本件小切手の振出人としての責任を負担しない。
よつて原告主張の表見代理による責任について判断する。
代理権を有しない者が直接に本人の署名または記名捺印をなして手形行為(小切手行為)をしたときは、右手形行為は無権代理行為である。(大審院第一民事部昭和八年九月二八日判決・民集一二巻二三六二頁)従つて追認・表見代理の民法の規定の適用がある。
しかるに、設例の場合、手形の偽造と無権限の署名代理による手形行為(無権代理)とを区別し、手形の偽造の場合は追認・表見代理の規定の適用を否定する見解がある。(大審院第一民事部昭和八年九月二八日判決新聞三六二〇号七頁)(最高裁判所第一小法廷昭和三二年二月七日判決・民集一一巻二二七頁は、その傍論から、偽造と無権代理とを区別し、偽造については表見代理の規定の適用がないとするかの如き趣旨が窺われるのであるが、偽造であるとして表見代理の規定の適用を否定した事案ではない。)
しかし、偽造とは文書成立の真否の観点から構成されるべき概念であつて、文書成立の真否の観点からみれば、設例の手形行為者の作成部分はすべて偽造である。無権代理と偽造とは相排斥するものではない。
手形の偽造と無権代理とを区別する上記の見解は、行為者が本人の為にする意思を以てした場合は無権代理であり行為者が自己の為にする意思を以てした場合は偽造であるとする。
しかし、代理における効果意思である本人の為にする意思とは、その行為の法律的効果を本人に帰属せしめんとする意思であつて事実上の利益は自已において取得する意思がある場合にも行為の法律的効果を本人に帰属せしめんとする意思は存在し得る。設例の場合すべて、行為者において行為の法律的効果を本人に帰属せしめんとする意思があると認められる。反対の見解は、法律的効果と事実上の利益とを混同し、事実上の利益を自己において取得する意思がある場合、法律的効果を本人に帰属せしめんとする代理意思の存在の可能性を否定する誤りがある。
よつて進んで設例の手形行為に民法第一一〇条の表見代理の規定を適用する場合の要件について考える。
まず客観的に、一定の代理権をもつている者(又は嘗て一定の代理権をもつていた者)の越権による手形行為であることが必要である。
つぎに手形流通保護の要求から、民法第一一〇条にいう第三者とは手形交付の直接の相手方のみならず、その後の手形取得者をも含むと解すべきである。
更に、手形流通保護の要求から、手形取得者において、当該手形無権代理行為を本人の行為であると認識して代理人の行為であることを認識しなかつた場合においても、手形取得者が、手形取得当時、当該手形行為が真正になされたものと信じ、且つそう信ずることについて正当の理由を有した場合は民法第一一〇条にいう其の権限ありと信ずベき正当の理由を有したときに該当すると解すべきである。
本件についてこれをみるに、上記認定の通り、森秀一の本件小切手作成行為は被告より嘗て与えられた喫茶店営業許可申請の代理権限を越えて、営業許可申請に使用した被告名の印章を使用してなされたものであり原告本人の供述によれば、原告は、本件小切手の振出名義人である被告が喫茶店ロアの営業名義人で森秀一と同棲生活をしていること(原告は、以上の事実を本件小切手取得当時より聞知していた)、被告が肩書住所において医師として開業していること(原告は、この事実を本件小切手取得の際聞知し、電話簿に被告が医師として登載されていることを確認した、)森秀一が外国製自動車を所有していたこと等から、本件小切手は真正なものであるとの森秀一の言明を信用して、本件小切手の成立の真否について格別の調査をせずに、本件小切手を日勧証券会社に対する株式売却代金の支払を受けるため、日勧証券会社代表取締役森秀一よりこれを受取つたことを認めることができる。
しかし森秀一が被告の印章を使用することは同棲生活をしている当事者間においては容易になされ得ることであるから必ずしも代理権の存在を信じさせ得る事情とするに足らないのみならず、原告本人の供述によれば、原告は本件小切手取得当時本件小切手の被告名下の印影が喫茶店営業許可申請に使用された印章押捺によるものであることを確認したわけでなかつたことが認められる更に原告は、被告が、喫茶店の営業名義人であつたとはいえ、相当高額の本件小切手を如何なる理由で日勧証券会社のために振出したかの点について、何等疑念を抱かず、被告が医師として開業していることを電話簿によつて確認したのみで、電話によつて直接被告に本件小切手成立の真正を確認する一挙手一投足の労も惜んで森秀一の言明をたやすく信用したのである。
以上の事実関係の下において原告は、本件小切手取得当時、本件小切手が真正に作成されたものと信じたことについて正当の理由を有しなかつたものと判断する。
よつて原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却し、民事訴訟法第八九条を適用し主文の通り判決する。
(裁判官 小西勝)